イングリッシュガーデンの歴史

(ガーデナー列伝)

イングリッシュ・ガーデンの歴史を知らなければならない理由は、ガーデンのスタイルを考える時にどうしても必要だからです。
クライアントがいろいろと夢と希望を述べます。それを聞きながら、「ああ、この人はこ の形式の庭をを言っているのだな。その話はあれだな。」と具体的な形で受けとめるために、あなたの頭の中にイメージが用意されている必要があります。それが18世紀以降のイングリッシュ・ガーデンの 形式の変遷の歴史なのです。

近世のガーデンの歴史の中で<整形式>と<非整形式>の対立が大きなテーマとなっています。現在でもその対立は引き続いて随所に現れます。だから<整形式><非整形式>についての理解だけは持っていないと先に進めません。
フランスのベルサイユ宮殿(1664年)の庭園の写真はご覧になったことがあると思います。なかったら見て下さい。あの<幾何学的な><シンメトリックな><壮大な>庭が<整形式庭園>の一つの極です。ベルサイユ宮殿 ほどの庭を人類はそう多くは持ちません。そしてその影響は世界に及びました。諸国の王は誰も が「自分のベルサイユ」を欲したのです。<整形式>が一世を風靡しました。

イギリスにおいても例外ではなく、多くの整形式庭園が作られました。
しかし1713年にイギリスの詩人アレキサンダー・ポープが樹木の刈込み装飾 (トピアリー)の人為性を嘲弄し、整形式庭園を徹底的に批判した一文を新聞に発表します。そして庭園の多様性と不規則性を論じ、庭造りは風景画を描くのと同じだと説きました。

この影響は大きく、イギリスにはその後ウイリアム・ケント以降自然風景派のガーデンデザイナーが輩出します。勿論それを受け入れた貴族社会の風潮があったからですが。
1780年に作家で庭園評論家のホレス・ウオルポールは「近代造園史」を発刊し、「自然は直線を忌み嫌う」の格言を残します。
この頃からイギリスでは産業革命の恩恵を受けた中産階級が、貴族の庭に比べれば小規模な庭園を作り始めますが、それも必然的に時代の影響を受けた<非整形式>の自然風景を取り入れた庭でした。 コテージ・ガーデンはその流れの中にあります。

つまりわが国で普通使われている「イングリッシュガーデン」とは、使っている人が意識しているかどうかは別として、18世紀中頃に始まったイギリスの<非整形式>自然風景式庭園 を指しています。
しかしすでに1世紀半以上が経過する中で、自然風景式もいろいろと変遷してきました。これから挙げるガーデナーの列伝でその動きを追ってみましょう。一口に「イングリッシュガーデン」といって全部をくくってしまうのも難しいことが判ります。

 

ガーデナー列伝

 

ここで 8人のガーデナーを取り上げます。この名前だけはぜひとも覚えて下さい。

ウイリアム・ケント
1685-1748

 


 

 

ウイリアム・ケントは画家としてイタリアで修行中にバーリントン卿に見出され共に帰国した。卿は建築にも関心が深く、ケントは建築家としても名を成す。イギリスにおけるパラデイアン様式の先駆者として幾つかの建築を残す。またウエストミンスター・ホールやグロセスター寺院に彼の絵を見ることが出来る。
アレキサンダー・ポープの「すべての点で自然を念頭におくこと。土地の精霊に相談せよ。」の2行の詩はバーリントン卿におくられたもので、ケントもその影響を受けた。

画家であったケントはまさにポープの言葉通り「風景画を描くように」庭を作った。整形式の束縛から解放された風景式庭園の始まりである。チズウイック、ストウ、ラウシャムなどに彼の仕事が残る。
彼はデザイナーであり、庭師ではなかった。
彼は垣根を飛び越えて広い自然の風景を庭に取り込んだが、彼の風景には古代ギリシャやイタリアへの憧れがあった。
 
ランスロット・ブラウン
1716-1783

 

ランスロット・ブラウンは庭師として修行を始め、1741年コバーム卿のストウ庭園に雇われる。ここで彼はウイリアム・ケントの下で10年働く幸運を得た。コバーム卿はやがて彼を主任庭師とするが、ここで培った人脈がのちの彼の仕事に大いに役立った。

1751年、彼はロンドンに出て造園設計家として独立する。
彼の手掛けた最も有名な庭園はチャッツワースとプレナム・パレスであろう。
彼は湖水の創造に熱中し、川をせきとめ、なだらかな曲線を見せる湖に変えた。そしてそこに樹木を配した。
年月のたった古い木を切り倒し、果樹園・菜園・花壇をすべて取り去って、計算されつくした配置に樹木を植えるのであった。時に風景の邪魔になる農家を撤去し、村全体を取り払うこともあった。
彼はどのような風景を見ても、「’改良’の可能性がある。」というので’ケイパビリテイ・ブラウン’と呼ばれた。彼には一見して何を取り去り、どこにアクセントをつけて、何を植えるかを見極める天賦の才能があった。
1767年には王立ハンプトン・コートの主任庭師に任命された。

ケイパビリテイ・ブラウンの名前と風景式庭園の評判は世界中に広まった。彼は150以上の庭を改良したという。
彼の造園は大掛かりな土木工事や建築工事を伴ったが、彼はそれを組織的にこなす近代的事業家でもあった。

彼の作り出した風景は、「あまりにも見事に自然を真似たものだから、彼のしたことは自然そのものと思われてしまうだろう。」(H・ウオルポール)と云われた。
彼は名声と富を得たが最後まで庭師であった。彼は1冊の書物も残さなかった。

 

ハンフリー・レプトン
1752-1818


レッドブックの表紙

ハンフリー・レプトンは徴税請負人の息子として生まれ、両親は彼に商人として成功することを望んだ。しかしオランダとの貿易などいくつかの仕事にすべて失敗し、田舎に身を隠して農業を習い 、植物と庭園について学んだ。その農業のビジネスでも失敗した彼は、借金取りに追われ破産におびえながら、眠られぬある夜、造園家 となって偉大なケーパブル・ブラウン亡き後の空白を埋めようと一念発起する。
彼の成功は、庭園の改造のBefore とAfterを得意の水彩画に描いて、それに豪華な赤いモロッコ皮の表紙をつけて<レッド・ブック>(庭園改造計画書)として提供したことによる。折りしもイギリスは商工業者の台頭の時代で、彼らがこぞって飛びついた。レプトンはレッド・ブックを400冊以上作ったという。
彼の庭園デザインはブラウンを踏襲している。彼はブラウンの作った庭園を多く改修している。一方で花壇を復活させたりした。

ケント、ブラウン、レプトンの3人がイギリスの風景式庭園の時代を代表する。

ジョン・C・ラウドン
1783-1843

ブラウンの単調な自然風景式に飽き足らなくなり、もっと「絵のような」庭を求める者も出てくる。<ピクチャレスク派>と呼ばれ、ナイト、ブライスらがレプトンに論争を仕掛けたりした。ゴシック趣味や、虚構性の強い<フォリー>が流行したりした。

こういう中で1830年頃より新しい庭園スタイル<ガードネスク>を提唱する動きが起こった。その中心にいたのがラウドンであった。<ガードネスク>とはそれまでの<ピクチャレスク>にことさら対比させ た名称である。
彼らは「園芸家の腕を示す庭らしい庭作り」を目指した。身近な場所で花を育てたいという栽培家の欲求は、ここにきて華やかな花壇として復活する。
整形式と風景式の混合である。

ラウドンは外来植物を多用し、公園の開設を主張した。

また彼は大変な勉強家・学者であり、園芸百科事典、英国樹木果樹誌を著し、「ガードナーズ・マガジン」を創刊した。生涯に6000万字の記述を残したという。

(実はこの後、風景派に対する整形派の巻き返しの論争が起きるのだが、ここでは省略します。論争は今に続きます。)
 

ジョセフ・バクストン
1801-1865

 

 

ジョセフ・バクストンは農家の3男に生まれ一介の庭師として修行を始めたが、たまたまデヴォンシャー公爵の目に留まり、チャッツワースの主任庭師を任せられた。公爵が7ヶ月の外国旅行から戻るとチャッツワースは目覚しい変貌を遂げていた。彼は人生最初のチャンスに十分に力量を発揮したのだった。25才であった。
公爵もバクストンによって目を開かれたように園芸にのめり込んでいく。
1838年、バクストンは年俸1000ポンドで王室の主任庭師に招かれるが断る。
1841年、チャッツワースに高さ20メートルの鉄骨ガラス張り・スチーム暖房の大温室を建てる。
1851年、第1回ロンドン万博に水晶宮・クリスタルパレスを建て て大成功をおさめ、ナイトの称号をうける。
週刊「ガードナーズ・クロニクル」を発行してジャーナリズムでも名声を得る一方、鉄道会社の経営にも関わるなど事業家としても成功する。
1854年、国会議員となる。
彼は最初に公園を設計・建設したガーデナーと云われ、その大きな構想力は現代のテーマパークの元祖である。

この時期、駅など人目をひく公共の場所に、1年草の花苗を大量に使って花壇に花の模様を描くカーペット・ベッデイング >(毛氈花壇)が流行した。
イングリッシュガーデンは幾つもの伏流を持ちながら流れ、変化してゆく。


第1回ロンドン万博開会式 クリスタルパレス
 

ウイリアム・ロビンソン
1838-1935

 

ウイリアム・ロビンソンは毛氈花壇にまで走った<ガードネスク>に強く反発し自然な庭造りを追求した。
彼はアイルランドの生まれでダブリンで庭師としての修行をつんだ。23才の時にロンドンに出て、イギリスに自生する草花に惹かれる。研究に励み、やがて雑誌に寄稿し、著作を発表するようになる。
彼の著書「野生庭園」は、庭園は自然の性質を尊重するものでなければならないと説く。
自然環境への配慮を重視し、植物相互の関係を検討し、大小の植物の配置や、植物の形態、葉の色などが考慮された彼の理論は、大規模な園芸ブームを引き起こした。彼は「ロック・ガーデン」を提唱し、この小庭はイギリス中で作られた。
彼はイギリス自生の植物だけでなく、外来種を混植し馴化させた。

こうした自然を尊重する風潮はコテージ・ガーデンにつながる。
コテージ・ガーデンはその成立の歴史からいって田舎の農家に付属する小さな庭であるから、大規模な造園とは無縁である。小さな庭であること、住人が自ら手入れしていること、が基本条件である。これはまさに現代の個人の庭である。
 

ガートルード・ジーキル
1843-1932

ガートルード・ジーキルは画家志望で、ウイリアム・モリスのアート&クラフト運動に共鳴していた。1880年代にロビンソンと交友をもち、1889年に建築家のエドウイン・ラテイヤンズと出会う。
ラテイヤンズの協力によりジーキルは才能を発揮した。彼の設計する整形式庭園の枠組みの中で、ロビンソンの自然派の考えを発展させることに成功した。ロビンソン派のジーキルは土着の樹木を用いて庭園と周囲の自然景観を結びつけた。
画家であった彼女は植物を形や質感、そして色彩によって配置することに興味を持った。色彩理論の影響を受け、マンステッドウッドの自宅に四季それぞれに色別のテーマを持つ花壇をデザインした。

彼女の視力は次第に衰えたが、1932年89才で没するまでに200の庭園を設計したという。 しかし色を組み合わせて細かく設計された庭はほとんど現存していない。

彼女は庭園を連続した絵画として考えていたといわれる。彼女のカラー・スキーム理論現代のイングリッシュガーデンに最も大きな影響を与えている。


ジーキルの植栽計画図

宮前保子氏が、ジーキルの著作を元に復元したもの
「イングリッシュガーデンの源流」(学芸出版社)より

 

ヴィタ・サックヴィル=ウエスト
1892-1962

貴族の娘。詩人で小説家。ヴァージニア・ウルフと親交があった。
長年オブザーバー紙にガーデニング・コラムを寄稿。
彼女は広さ千エーカー、部屋数が365もある城で子供時代を過ごした。彼女は1人娘だったが、女性であるがゆえにこの城と土地を相続することが出来なかった。
失望した彼女は他に土地を買って庭造りを始めた。1930年、38才の時にシシング・ハースト・カースルに荒れ果てた館跡を購入し、夫のハロルド・ニコルソンと共に30年にわたって作り上げたのが20世紀最高の庭とまで云われる同名の庭である。
ロマンチックに、常に花が溢れ、無秩序でなく、しかし植栽は自然風にという彼女の考えがもっともよく現れているのが庭中のホワイトガーデンと云われる。
彼女の死後、1962年にナショナル・トラストに寄贈された。

 

参考書 「ヨーロッパ庭園物語」(G・ズイレン 創元社)、「英国式庭園」(中尾真理 講談社)、「庭園史をあるく」(佐々木邦博 昭和堂)、「イングリッシュガーデンの源流」(宮前保子 学芸出版社)、「ケンブリッジ人名辞典(英)」、その他Web  (文責:森下)

レッスンの目次

     花壇の種類
     花壇のプラニング
     ボーダーガーデン
     レイズドベッド
     アイランドベッド
     
ロックガーデン
     花の種類分け
     花を植える方法
     植物の生理
     
用土のこと
     はじめに名前あり 
     (国際栽培植物命名規約)
     デザインの原理と要素
     ゾーニングと動線
     フォーカルポイント
     色彩使用の3つのポイント
     
寸法表

   イングリッシュガーデンの歴史
   
日本庭園の歴史と分類

 

Home

PCC